サムスンの価値を築いた李健煕会長の死去・・・彼を振り返りながら
執筆=イ・サングック論説室長

양정미 기자

登録 : 2020-10-26 11:04 | 修正 : 2020-10-26 11:20

[写真=サムスン電子提供(サムスンの創業主故李秉喆(イ・ビョンチョル)会長と故李健熙(イ・ゴンヒ)会長]


韓国現代史の「傑出した企業家」

韓国の戦後70年は世界を驚かせた経済奇跡の道だった。その奇跡の道で傑出した企業家一人を挙げるとすれば、断然李健煕(イ・ゴンヒ)サムスングループ会長(1942~2020、10月25日死去)だ。韓国の産業化を主導した朴正煕(パク・チョンヒ)政権の支援に支えられて企業報国を唱えた、この地の礎を築いた大企業の創業第1世代が去り、その「ミッション」を引き継いだ人の一人である李会長は、韓国のサムスンを世界のサムスンに変えた企業リーダーシップの師表だった。

彼は経営の文武を父(イ・ビョンチョル)と妻の父(ホン・ジンギ元中央日報会長)から学んだと告白したことがある。父は彼に『武(実行力)』の師匠だった。「父は経営一線にいつも私を同伴して仕事を直接してみろと注文した。くわしく説明してくれなかった。現場でぶつかりながら自ら身につけさせた。経営が理論ではなく実践であり、感ということをそこで悟った」。文(知恵・哲学・ビージョン)は妻の父から学んだ。「彼は企業経営と政治、経済、法律、行政の知識がどう機能するかを説明してくれた。」

本当の克日とは何だろうか。その質問の答えたのは李健煕会長だ。洪思徳(ホン・サドク)元議員(6月死去)は1950年代、彼と高校の同窓だった。彼は当時の思い出を語ったことがある。青少年の李健熙は、洪思徳に日本の小学校教科書を何冊かを渡し、日本語を学んでおくように助言した。洪氏が何のために学ぶのかと聞くと、「日本がどのように変化するかを知ってこそ、韓国が進むべき道が分かる」と答えたという。

当時、少年は無口で人とあまり付き合いがなかったが、たまに変なことを言った。例えば「工場を建てて働き口をたくさん作るのが愛国だ」とか「米国から借款をするこどで、米国の利害関係のために韓国の安保が丈夫になる」などのような話だ。日本語を学ぶように言っていた少年は、ついに2006年、グローバルテレビ市場で最強の日本ソニーを抜き、サムスンを世界トップの座に押し上げた。当時、日本の一流企業と今のサムスンを比較してみよう。日本に勝つことはスローガンではなく、徹底した『準備』や勝負意識と実践から生まれるということを見せてくれたわけだ。

李会長に対する韓国社会での評価は多面的である。観点の問題であるだけでなく、彼が経営した企業が持つ本質的な光と陰ともいえる。この地の大企業は、誕生環境が独裁的権力の産業化意志によって形成されただけに、政治的特恵を享受した冤罪を否定できない上、そうやって築いてきた企業基盤を受け継いだ人に対するやさしくない観点がどうしても存在する。しかし、ある企業家が自分の力量とビジョンで、サムスンという国家代表の企業を換骨奪胎させた『成果』と価値は認められなければならない。

超一流と新経営のサムスン神話の創造者

1987年にサムスングループの第2代会長に就任した李会長は、就任式の第一声で「挑戦的な経営で90年代までに超一流企業に成長させる」と明らかにした。一見すると常套的な修辞に聞こえたこの言葉は、韓国の企業を革新の軌道に乗せる宣言だった。馴染みのなかった『超一流』は、これまで企業の話題になってきた。

彼の超一流跳躍の核心は、当時、父の李秉喆(イ・ビョンチョル)会長とサムスン内部の慎重論を押し切って挑戦した『半導体』だ。彼は1974年、私財を投じて韓国半導体持分50%を買収する。オイルショックで不確実性が増す中、先端産業に大胆な投資が必要だという信念からだった。14年ぶりの1988年、半導体事業は黒字に転じ、サムスン電子の年間売り上げは初めて3兆ウォンを超えた。会長就任1年で見せた成果で、半導体は『李健煕事業』と呼ばれたりもした。サムスン電子は2020年第2四半期基準、世界Dラム市場の42.1%、ナンド市場の33.8%を占有し1位となった。両方とも2位との格差が10%ポイント以上だ。

彼の経営的選択が世界的な注目を集めたのは1993年だった。米国のある家電売り場でサムスン電子の製品が隅に置かれているのを見て、李会長はこの企業の体質を変える決定打を放つことにした。6月、ドイツのフランクフルト・ケンピンスキーホテルにサムスンの経営陣が集まった。この日、サムスンは妻と子供以外は全部変えようという新経営を宣言し、これは韓国の国内だけでなく世界が注目した。

このようなサムスンの極端的な『新経営宣言』は、韓国社会全体に衝撃を与える。午前7時、出勤午後4時に退社制が実施された。不良のサムスンフォンはすべて燃やせるようにした李会長の断固たる命令に、数億ウォン分の携帯電話を燃やした。創業者が成し遂げた企業基盤を一新する彼の決断は、サムスンを世界のトップ企業に成長させる転機を作った。以後、サムスンが内外の環境によるさまざまな危機に直面しながらも急成長を続けてきたのは、『李健煕精神』が重大な起爆剤になった証拠と言える。

企業の複合危機打開という課題を残し

彼が起こした経営革新の核心は『品質経営』だった。製品の競争力を強調した彼は、スマートフォンや家電、テレビなどでも、サムスンをグローバルトップに成長させる。2009年にサムスンの冷蔵庫爆発事故や2016年のギャラクシーノート7爆発事故が起きたとき、人々は『李健熙の不在』を思い浮かべた。その後、彼が病院に入院した約6年間の不在期間は、李在鎔(イ・ジェヨン)副会長の革新経営の力量が検証される時期でもあった。『時代の革新家』と決別したサムスンが、今後、先代の品質経営をどのように高度化し、新しい企業を作っていくのかに注目が集まる理由だ。

李健煕会長は『危機経営』という言葉をよく使った。この言葉は危機に瀕した時、臨機応変の経営をどうするかを強調したのではなく、危機を予測し、そのシナリオに従って経営の柔軟かつ迅速な決定システムを作ることだった。市場の変化が激しいほど、このような経営方式は有効だった。危機に強いサムスン体質を作り出したわけだ。1997年の通貨危機や2009年のグローバル金融危機を成功裏に克服したのは、このような背景があったためだ。サムスンは今も内外的に複合危機に直面している。企業内部の矛盾(企業支配構造とグループ承継問題)が招いた結果といえる。この矛盾の危機をきちんと克服することが、サムスンにとって重大な変曲点になるだろう。


 
top